国道864号線沿い

国道864号線沿い

はま寿司とスシローが向かい合わせに建っている田舎の国道

劇場版「SHIROBAKO」感想

ヲタクなのに純粋な涙を流していいんだ……

 

そう思えるほどに、斜に構えたヲタクの心を浄化するほどに、名作でした。劇場版「SHIROBAKO

 

 

こんにちは、申し遅れました。はやかわです。

今回は2/29に公開された劇場版「SHIROBAKO」の感想ブログを書きたいと思います。多分大筋の流れを書いたブログだったり、作品のメインテーマに寄り添ったりするブログとかは既に結構公開されていると思いますので(僕も何個か見ました)、今回は語りたいところを一部抜粋して書いていきたいと思います。僕もそんなに長い文章を書きたくないし、ヲタクもそんなに長い文章読みたくないだろうし。win-winですよ、win-win

 

さて、下に目次だけ作成しておきますので、よかったら気になった所だけでもどうぞ。

あ、勿論見たことを前提にしてブログを書いているので、ネタバレもガンガン出てきます。その辺はまあよろしくということで。

 

 

 

徹底的な模倣と差別に込められた復活譚としての助走

 テレビ放送版の振り返りが流れ、4年後の世界に切り替わる。ここでテレビ放送版を一度でも見たことがある人はすぐに気づくんじゃないでしょうか。

 劇場版とテレビ放送版、どちらも同じ展開からスタートしていることに。信号待ちをする武蔵野アニメーションの車。対向車線の更に向こうに映る志野亭。流れるラジオ。ムサニの車に横付けする他社の車。徹底的な模倣ですね。

 しかし、その一方で多少の違和感も感じるでしょう。

 まず、他社の車。テレビ放送版では「G.I.STAFF」であったはずなのに、劇場版では「k9 Pictures」になっていますね。あの、「ペクサーのような会社を興して独立すること」という夢を語っていた富ヶ谷に一体、4年間の間に何があったのでしょうか。本編では出てくることがなかったけれども、そうした微妙な違いが、違和感としてこびり付いてくる感覚が確かにありました。ありませんでしたか?

 決定的なのは、ラジオの中身からだと思います。テレビ放送版では、「アニメバブル」真っ最中であることが示唆されており、当時ムサニが元請けで制作していた「えくそだすっ!」の中の人を呼んで宣伝を行う内容となっていますね。その後、「えくそだすっ!」のOPが流れる中、信号が切り替わり、カーチェイスが始まる……といった流れになっているところは誰もが知るところであると思います。

 しかし劇場版はどうでしょう。ラジオの中身は「アニメバブルは弾けた」と言われていて、予算の都合上で中の人が呼べなかったとまで言い切っていますね。流れるOPはテレビ放送版の最後で言及されていた「限界集落過疎娘」のOPで、車は信号が切り替わった瞬間上手く発進できず、他社の車に置いていかれてしまいます。どことなく、流れる歌詞ももの悲しいですね。(「仕方ないのでやれやれ」というド直球な曲名には思わず笑ってしまいましたが)

 

 そう、劇場版「SHIROBAKO」は徹底的な模倣の中に対比する要素を入れ込むことで、現在の武蔵野アニメーションが上手くいっていないということを巧みに暗示しているのです。では、なぜそんなことをするのでしょうか。それは、精度の高い絶望であるほど、復活譚が輝くからだと僕は思います。

 復活譚とは復活物語、例えば古豪の野球部の復活だったり、辞めたバンドのメンバーを再度勧誘したりと、元あった場所に帰ろうと主人公が奮闘する物語のことを指します。まあ厳密に定義がある訳ではないんですけれども。復活譚って感動を誘いやすいんですよね。何か問題があって復活できない訳ですから、明確なハードルが存在するんですよね。このハードルが高くて見えやすい程物語としては面白くなるわけであって。

 それで、この物語においては「武蔵野アニメーションの復活」というゴールがあって。そこに置かれているハードルは一言で言うと「人がいなくなってしまった」な訳じゃないですか。(そんな簡単な話ではないんですけどね。)

 ここで、ハードルを視認させる精度が高いところが、この劇場版の凄いところだと僕は思っています。

 もしですよ、空きの多いデスクで必死に、でも絶望が浮かんだ表情で仕事をするみゃーもりの姿から劇場版がスタートしたとするじゃないですか。これでもハードルが存在していること自体は伝わると思うんですけど、精度が悪いんですよね。なぜって、これだとみゃーもりのみに問題があるように取ってしまう視聴者も少なからずいると思いませんか?

 そういう人がもしいたとしたら、多分みゃーもりが会議室に入っていくシーンで「ん?」ってなると思うんですよ、想定していたよりハードルが大きいから。そうなると、物語に入っていきづらくなって、ちょっとフワフワしたまま視聴してしまうことになる訳ですよ。これはよくない。

 だから、ハードルの視認の精度というのは物語、特に巻き戻しのできない劇場版では非常に重要なんですよね。そこでこの作品の凄いところは、1話との対比を行うことで「世界自体がどうしようもなく変わってしまった」という感覚を視聴者に植え付けるわけですよ。この感覚に視聴者を持っていくことで、「みゃーもり」ではなく、もっと大きな、「武蔵野アニメーション」にハードルがある、ということを視認させやすくなっている訳なのです。しかも、余計なノイズが入らないように、対比箇所以外は徹底的に模倣する。凄いですね。

 そのかいあって、みゃーもりが会議室に入っていくシーンで答え合わせが完了した時に、「やっぱりな」と思った方がほとんどでしょう。「やっぱりな」は「やっぱりな」ではないのです。「問題はこれです」と誘導されているのですから。

 

 開始数分でここまで精度の高いテーマへの誘導をしてくる作品、劇場版「SHIROBAKO」、なんて末恐ろしい作品でしょうか。ただ、復活譚を輝かせる要素はまだまだこれだけではないのです。

 

 

非情な現実の中にも復活譚が

 さっきハードル設定のお話をしたのですが、実はハードルは1つじゃないんですよね。上山高校アニメーション同好会の面々にも先程のハードルとは別の個別のハードルが用意されています。これは中々に言語化しづらいのですが、一言で言うなら目標が「現状の打破」で、ハードルは「積みあがってしまったキャリア」でしょうか。

 4年の月日が明確に描かれているわけではないですが、5人とも確実にキャリアを積んでいることが分かります。しかし、現状に満足して仕事をしている子は、誰もいません。もっとできるはずなのに。もっとやりたいことがあるのに。そもそも、私のやりたいことって何だろう。私、全然成長してないな。そんな顔をしながら、彼女たちは働いています。しかし時の流れというものは残酷で、時の流れは彼女たちにキャリアと責任を運んできました。

 確かに4年間で成長自体はしたのかもしれない。でも、自分が思っているように成長したのだろうか。やりたいことはできているのだろうか。何なら、4年前の何者でもなかった頃の方が足掻きさえすればなりたかったものに近づけていた分、自分はもしかしたら退化しているのではないか。ここまでいくと推測の域ですが、でも彼女たちは似たようなことを感じながら過ごしていたはずです。

 

 それが特に表れている象徴的なシーンは、居酒屋に集まる所ですかね。「めっちゃ言いたいことがある!」といって始まった飲み会ですが、出てくる言葉は「頑張る」「頑張るしかない」「頑張らないと」「頑張るしかないよ」といったもののみ。なんだか僕はここで、声優さんの演技も相まって「実際頑張るって何をするんだよ」だったり、「頑張ったって無駄じゃないか」といった言った虚しさだったり、言葉の薄さを感じました。

 また、「久しぶりに集まった」という言葉や、皆が他の人の仕事の内容について「~だっけ?」みたいな形で伝聞系で喋るところからキャリアだけは積んでしまって、忙しさの中で悩殺され、精神を磨り減らしながら生きているんだろうな、ということが感じられました。

 

 他にも、色々あるのですが(みゃーもりが現社長から「エース」と呼ばれて怒るシーンとか)、兎にも角にも5人からは「アニメを作るものとして成長したいけど、そもそも私は何がやりたいんだっけ」といった悩みを感じます。これが、「武蔵野アニメーションの復活」と並んで置かれている「現状の打破」というゴールなのです。

 

 こうして1つではない、複数の目標設定が、しかも大体同じベクトルを向いて設定されていることで、物語はより重厚に、面白くなっていくのです。

 

 

ラストまで徹底された模倣。でも復活譚のラストはその前にあった。

 その後、全ての目標のゴールとして「劇場版の作成」が置かれ、遠藤や監督などの復活譚を経由しながら劇場版は段々完成へと近づいていきます。今回は長くなるのでそこは割愛させて頂くとして、注目すべきはクライマックスである、げ~ぺ~う~の社長との闘いでしょう。

 これもテレビ放送版の模倣であることに皆さん気づいたでしょう。テレビ放送版では茶沢でしたが。「絶対的な悪」として描かれた敵を登場させ、それを倒すことでハッピーエンド。全員復活。物語の最初が模倣なら最後も模倣。なんと憎い演出でしょうか。

 

 しかし、復活譚としてのラストは実はその前にあったと僕は思っています。なぜって?それは、模倣のラストはエンドロールでしかないからです。

 皆さんも思いませんでしたか?最後の対げ~ぺ~う~戦。伏線回収もあり、とても素晴らしいものだとは思うのですが、ハラハラドキドキ感はあまりなかったということに。なぜなら、この流れはテレビ放送版でもあったから、そして復活譚として展開される物語として、最初の模倣に差をつけることはあっても、最後の模倣に手を付けることは有り得ないからです。そうなるとげ~ぺ~う~戦においての結末は、想像できるというもの。分かり切っている結末は、ラストではなくエンドロールにしかなり得ないのです。

 

 では、ここで疑問が残る点が2つ。本当のラストはどこだということ、そして分かり切ったシナリオを展開をすることの必要性はあるのか、ということです。

 まずは、ラストはどこなのかという点。復活譚のエンドロールがげ~ぺ~う~との戦いとするなら、エンドはその直前にあるはず。そう、そして実際エンドは直前にあったのです。それは、興津さんが「タイマスの時に使えなかった」と言いながらみゃーもりに衣装を渡すシーンでした。

 「タイマス」という復活譚を始めるきっかけとなった、武蔵野アニメーション崩壊のきっかけとなったアニメの名前。そして「使えなかった」という、不可能、圧力、絶望を孕んだ色々な感情が伝わってくる絶妙なセリフ回し。そして、「でも、今回は使えます」という言葉が続きそうな興津さんの表情。その全てが、武蔵野アニメーションの復活譚のエンドとしてふさわしい1カットでした。僕はこのセリフを聴いたとき、「あぁ……もう大丈夫なんだな、武蔵野アニメーションは」と思い、めちゃくちゃに泣いてしまいました。(実際には「その格好で行くつもりですか?」というセリフ辺りから泣いていましたが)このカット、全カットで1番好きかもしれない……

 次に分かり切ったシナリオを展開することの必要性ですが、めちゃくちゃにあります。復活譚に道半ばで区切りをつける。これが、劇場版「SHIROBAKO」のすごいところです。そして、ここからが、劇場版「SHIROBAKO」の本当にすごいところなのです。最初から一貫して描いていた復活譚としてのストーリを踏み台にして、物語は更なる高みへと昇っていくのです。詳しくは次項をご覧ください。

 

 

意地の悪いシナリオと成長譚としての一歩先へ

 こうして大円団、劇場版が完成しました。復活譚としては終わり、後は真のエンドロールである作った劇場版を見るだけです。

 

……

 

 見ましたか、みゃーもり達が作った劇場版のラスト。あそこに猛烈な意地の悪さを感じました。俺たちの戦いはこれからだ……エンドで、しかもそれがバッドであることを示唆しているのです。しかも、皆さん思われたでしょう、「アレ?このエンド、なんだか微妙だな」と。

 復活しきった武蔵野アニメーションが描く物語が微妙なバッドエンド……復活譚にしては、最後の最後で尻すぼみというか、ちょっとテレビ放送版とは違って後味の悪いエンドロールです。ちょっと大団円とは程遠い感じですよね。あれ程の大団円を迎えたテレビ放送版の結末が劇場版の初めに繋がる訳ですから、やっと復活したばっかりの武蔵野アニメーションがこのままこの劇場版を上映したら、一体どうなってしまうのだろうか。そんなことを感じさせるようなエンドロールですよね。

 

 でもここからが凄いんですよ、この作品は。みゃーもりが「なんで言ってくれないんですか」と監督に詰め寄り、シナリオの変更を提言します。テレビ放送版では原作者に言われたことで行ったシナリオ変更を、自ら。

 前は原作者からのボツという外部からの動きに導かれる形でゴールに向かっていったのを、成功する保証はないけれども自らの意思でゴールを掴み取ろうとしているのです。これは一体……

 

 そう、これは復活ではなく、成長ですね。

 

 ここで遂に劇場版「SHIROBAKO」は、武蔵野アニメーションの成長と共にテレビ放送版の模倣から離れ羽ばたいていくのです。復活譚として描かれていた物語は最後、急激に成長譚へと姿を変えてみせるのです。

 

 足掻くは終盤にも多用されているように、この作品の本当に伝えたいテーマでしょう。足掻くことは一見みっともないし、報われるとも限りません。でも、足掻かないと先は見えてこないのです。企画が全ボツを喰らいながらも、憧れのみじかい監督と一緒に仕事をしているタローなんて、最たる例ではないでしょうか。結果が出るかどうかは分からない。でも足掻かないと何も始まらない、まずは足掻け!――そんなメッセージを感じさせる終盤ですよね。

 その魂が乗り移ったのか、劇場版の新ラストの内容も足掻く内容に。みゃーもりが「これが武蔵野アニメーションの今の全てです」と言ったシーンは恐らく、いや絶対武蔵野アニメーションの総意から出た言葉でしょう。

 「その先」「道標」を見せられるのは、足掻いた人だけなんです。ねえ、丸川さん。そうでしょう?

 

 

fhanaの歌は劇場で初めて聴くべきである

 良かったですね、新しいラスト。「これが武蔵野アニメーションの全て」とまでいわしめてアレを流されるともう泣くしかないです。そして物語は本当のエンドロールに向かっていくわけですが、「星をあつめて」が良すぎる。

 映画の内容を総括しためちゃくちゃ文脈が強いタイプの歌詞なのですが、特に1番サビ、2番サビ、大サビの歌詞の流れが最高なのです。

 

 まず1番。歌詞は以下の通り。

 

星をあつめて

散らばった光を紡ごう

その一瞬できらめく形写して

箱にしまったほらそれはトワの模様

 これは前の歌詞から推測するにテレビ放送版を要約した歌詞です。人を集めてアニメを作ろう。その輝かしいアニメ、そして作った記憶をずっとずっと永遠によかった過去として心の中に持っていた、という意味合いの歌詞だと推測できます。

 

 次に2番。歌詞は以下の通り。

 

星を数えて

新しい星座を結ぼう

その一瞬で幾千のドラマ重なって

結晶になるほらそれはトワの魔法さ

 これは劇場版の要約ですね。あつめずに数えていたりと細かい違いが見えます。出てくる人は基本的に一緒ですからね。新しい星座は劇場版。劇場版を作るにあたって幾千のドラマを越えました。そしてまたみんな結集する、結晶になるのです。

 ここまでは分かりますが、トワの魔法とはなんでしょうか。ここは解釈が分かれるところだと思いますが、僕はこのトワは「常」、それは「足掻くこと」だと思っています。足掻くことはいつだって魔法、自分を変える方法さ。そんな意味合いを込めた歌詞だと思っています。

 

 最後に大サビ。歌詞は以下の通り。

 

星をあつめて

散らばった光を紡ごう

それで永遠の一瞬の光つかもう

そのきらめきはきっと救いになると

信じて箱にしまった

ほらそれはまばゆい奇跡

 これは「足掻く」が頻出したラスト近くの話の要約に思えます。1番と同じ最初の2行。足掻いていたテレビ放送版を表している1番と同じ歌詞を使うことで足掻くことの重要さを改めて示します。永遠の一瞬の光が救いになるとは、「道標」のことでしょう。劇場版アニメは公開される時期などを考えても一瞬の光かもしれませんが、誰かの心の中に、自分たちの心の中に、「道標」としてそのきらめきは永遠となるのです。それはまばゆい奇跡といっても過言ではないと思います。

 どうでしょう、この劇場版はそしてこの曲は皆さんの「道標」となったでしょうか。

 

 fhanaさんサイドとしては多くの人に沢山曲を聴いてほしいでしょうけど、僕はあえてこう言いたいです。「fhanaの星をあつめては劇場で初めて聴くべきである」と。普通に聴いても名曲なのですが、劇場であのアニメを見て流れてくる「星をあつめて」は恐らく皆にとって深く記憶に刻まれる、名曲の一歩上を行く曲になるはずですから。まあ多分ネタバレがゴリゴリにあるので未視聴の方にこの言葉が届くことはないでしょうけど。

 

 

エンドロール後の問いかけは誰に向けてのものか

 エンドロール後に更にあのラストを持ってくるの、ズルくないですか?ちょっとメタ的な、こっちを向いているようなミムジーとロロの問いかけにドキッとした人も多いのではないでしょうか。最初の「僕らが思ってることを伝えられたかな」という言葉、すごいゾクっとしました。

 ちょっとリアルを描く作品だからこそ、等身大に近い作品だからこそ、このようなメタ的な問いかけが、普段よりもずっと響くのかもしれません。

 皆、受け取りましたか?皆も僕と一緒にみゃーもりのように足掻いていこうな……

 

 

おわりに

  いや、本当に良かったですね。劇場版「SHIROBAKO」。復活譚と成長譚をシームレスに繋げているからこそ、この作品は感動が強いのでしょう。そして復活譚と成長譚のそれぞれに、「武蔵野アニメーション」という会社全体での復活と成長であるが故に、多くの人間ドラマが存在します。それが幾重にも折り重なることで、物語としての厚みが物凄いことになっているのでしょう。本当に素晴らしい作品を見せて頂きました。ありがとうございました。

 僕の文章力が至らないこともあるので、劇場版「SHIROBAKO」の魅力がこの文章で伝わっているかどうかは不安な点も多いですが、とりあえず今回はここまでとさせて頂きたいと思います。伝われ……この作品の魅力。

 まだ僕が受け止め切れていないメッセージも多くあると思うので、とりあえず僕は明日3回目を見に行こうと思います。

 

それでは、また。

 

 

 

〈追記〉

平岡・タローの色紙当たった!嬉しいね

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